●人にフィクションは必要か?
s・バレット >時折疑問に思うのです。テレビゲームは勿論の事、映画、ドラマ、小説、
漫画、詩、音楽などなど・・・・・・「一体私はどれだけの虚構に囲まれているんだろう?」
我々の周囲には現在、驚くほど多くのフィクションが渦巻いています。
そして我々はそれらを享受し、貪っている。物語に描かれた体験を自らの体験と化し、それを血肉として生きている。まるで自明の事であるかのように。フィクションなしの生活など、我々には到底考えられない。
しかし、本当にそうなのでしょうか?本当にフィクションはヒトにとって、必要不可欠な要素なのでしょうか?
フィクションなど、所詮フィクション。実体が伴わない上に、更に言ってしまえば、単なる嘘に過ぎないではないですか。なんの役に立つ?現に獣が生きて行くのにフィクションなど必要無い、日々の糧と運さえあれば、十分生きてゆける。
私はフィクションが好きです。フィクションなしの生活など考えられないくらいフィクションに依存して生活しています。私の生命とフィクションは不可分であると言っても過言ではない。
故に問いたい。「人にフィクションは必要?不必要?」
今までのお題に比べるとちょっと一般的。
HDK >現実の物事から虚構が生まれ、その虚構が新たな現実を生む。その様は雌雄一対のようであり、螺旋を描いているかのようだ。ドコモのCMがそれを端的に表わしている。今の世の中はある意味009の世界だろう。
私の中では、必要の可不可以前の問題だな。
フィクションを重視するかノンフィクションを重視するかの問題であると思う。
私はリアルもロマンもないと生きていけない人なのだ、というのが導き出した唯一の答えだ。
s・バレット >ドコモのCMしらねえ。故に、今の世の中がどう009かもわからねえ。
まあ、それはそれとします。HDKさんの言われる事は概ね分かった。
つまり、人から虚構を取り除けば、それはもう既に人とは別の何かに過ぎないじゃないか、っつーことですか。なるほど。
私もHDKさんと似たようなこと、考えてます。
ものの本に載っていた「真理とは、選択不可避な誤謬のことである」ってニーチェの言葉にそーだそーだと賛同してました。
では、もうちょっと議論の幅をせばめてみましょう。
>現実の物事から虚構が生まれ、その虚構が新たな現実を生む。
ならば、「あらたな現実」を生まない虚構は?
おそらく、ここでHDKさんが想定している「虚構」は神話やイデオロギー、プロパガンダ、歴史記述などのことでしょう。確かにそれらは虚構でありながら現実に密接に関係し、人類の歴史を紡いできた一つの力として現実的問題に劣らない、いや、しばしばそれ以上の影響力を我々に与えています。
実際問題としてこれらの「虚構」は、虚構と呼ぶには相応しくないほどに生々しい「現実」です。「嘘」として軽視されているものではない。
一方で、明らかに「嘘」として「現実問題に比較的軽視されている虚構があります。ぶっちゃけていえば、エンタテイメントや文学に位置する虚構たち。嘘か本当かはさておいて、気を抜いて、楽に楽しむための民話や説話。あるいは都市伝説。
あきらかに「現実」とみなされる虚構同様に、これらも必要の可不可以前の問題か?たわいもない「嘘」を消してしまった時、人はどうなるのか?
議論続行。
HDK >別に虚構を神話に限定しているわけじゃないんだがねぇ。
神話も物語であり、空想であり、エンターテインメントであるっちゅーのが私の考えであるわけで。
ドコモのCMを例に挙げたのは、石ノ森章太郎や手塚治虫や多くの創造者が空想し、物語として作り上げた「モノ」が現代において実現しているしていることは昔の視点から見ればSFだよねっていう意味なのよ。
人間にとってフィクションは必要かどうかなんて、人間が生み出した技術の結晶の数々を見れば、「言われるまでもない」と思うっちゅーことなワケ。
それをふまえて「フィクション重視orノンフィクション重視」じゃないのっていう話なんだけど。
新しいもの、未知のものを生み出すには創造力が必要で、それはヒトの豊かすぎるほどの想像力がエネルギー源なんじゃないの?その想像力がなくなれば、人間なんてただのロボットだろうね。
あび >さて、概論
生活にあたって、推定される状況のシミュレーションは必要
(猫も狩りのまねをするんよ、よって人はとりたいけど)
よって、フィクションは必要
範囲限定として
現実を生まない(結果としない)虚構=物との絡み(生活上)につながらな虚構
として話を進めます
刺激に対する情動が生じない、あるいは乏しいという病気があります
自閉症です(先天的なものなんですけどね)
これたいして、刺激に対するわずかな情動を繰り返えして、反応を導き出すということをやるんですね
当たり前と思っている反応も教育(経験)によって成り立っているという事が判ります
そして、内的刺激から内的情動を導き出すということもやるんですね
(想像力を育むってことです)本を読んで楽しいと思うとか
想像力が無い、乏しいとしても人間(社会的生物)として生きていくことになるんですよ
で、やっぱり生活しにくいわけで…
経験というもの(これは内的なものになりうる)を味あわせることのできる虚構は、
物との絡み(生活上)につながらなくても必要だってことだと思います
s・バレット >>別に虚構を神話に限定しているわけじゃないんだがねぇ。
大丈夫。別に、HDKさんが神話等に限定しているとは思ってませんよ。
>私はリアルもロマンもないと生きていけない人なのだ、というのが導き出し
>た唯一の答えだ。
における「ロマン」は「エンタテイメント(娯楽)」のことなんだなと思っていましたから。
ただ、「フィクション」には2種類があるのだ、ということをはっきりさせておこうかと思った。つまり、物質的な問題と同列に扱われるリアルなフィクション(歴史や民族など)と、所詮嘘だろと比較的軽んじられる、一般的に用いられる意味でのフィクション。この二つは、このようなリクツっぽい場では混同しやすいので、はっきり分けておいた方が今後の議論が円滑に進むのではないかと、こう考えたので。
前回は神話を「リアルなフィクション」の方にカテゴライズしてみたけど、実は、神話の位置付けってヒジョーに微妙。
>経験というもの(これは内的なものになりうる)を味あわせることのできる
>虚構は、
>物との絡み(生活上)につながらなくても必要だってことだと思います
っつーことは、内的経験を蓄積し社会性や情動を育むのに、フィクションはトテモ有効。故にフィクションは必要。という解釈でいいんですかね?う〜む、どうもあびさんの言いたいことが汲めてない気がする……
あと、「人に」って前置き、取ってもかまわんっす。取ると、如何な方向に発展しますか?
あび >>内的経験を蓄積し社会性や情動を育むのに、フィクションはトテモ有効
ほぼO.K.です
たとえが特化しすぎて判りにくくなってますね、すいません
ただ、無いと生きられない(必要)というような強い意味で考えています
社会の構成員として個々の認識を平坦化する為、共通の幻想(虚構)は持たざるを得ないと考えます
現状、社会的な生物として生きているのですから
>取ると、如何な方向に発展しますか
「人に」とすると「人間らしさ」の論議になりそうかと思ったのでそれを警戒しました
社会学が、生物学の群集行動から起きたこともあり、そういうのは好みではないので
発展は、哲学的側面が薄くなり、実証的な方向に進むと思いますが
魔竜 >初めまして。
メガテンのネット泳いでてこんな話題を見つけるとは^^;。
「獣」が生きていくのにフィクションは必要ない。この点に意義がありまして。
近所に、縄がはずれると走っていってしまい、しばらく戻ってこない犬がいるんです。
ところが、遠出が過ぎ、行方が分からなくなってしまいました。
結局、酷い怪我をして、病院で保護されていました。
ちょっとは懲りたかな?と思ってたら、折れた足で走っていってしまいました。
それで、気になって様子を見ていたんですが。
「彼」が走って行く時、現実に向かっている対象が見当たらないのです。
「彼」は何処かに向かっている様子が無く、何かから逃げているわけでも無いようなんです。
この時、「彼」が何かを期待しているのは確かです。
それを見ていると、「彼の中にもフィクションがある。」様に思えます。
必死で追っかけている飼い主には悪いのですが、とても楽しそうです。
一見、生きて行くだけなら邪魔になる(「彼」も大怪我したし)「フィクション」も絶対に必要なのだと感じます。
決して人間だけでなく。
PS・「ノン・フィクション」て言葉には気を付けたいよね。
「造り物」が混ざってるから^^;。
魔竜 >あまりに興味深い話題なので、またきてしまいました^^;。
小説やゲーム等に限った場合、「人」単体にとってのメリットは薄れます。
しかし、「人類」にとってなら「種の保存」のため、大きなメリットが生まれます。
「多様性」です。
「均一な生物の群は、一つの理由で滅んでしまう。」ので、一人一人がちょっとづつ違うと生存競争に有利です。
その上で、仲魔紹介を見ると面白いことに気付きます。
クリアしたゲームには、かなり同じ物が並んでいるのに、好きな??の所はそれぞれ違う答えが書いてあります。
つまり、同じゲームが、それぞれに違う影響を与えていることになります。
結論。
ゲーム等のフィクション、その「現実における価値」の一つを、このHPは明示している。
いかがなもんでしょ^^;。
あび >恋愛も幻想でなりたってるしなぁ…
必要だよなぁ…
>魔竜さん
動物好きは「人」だけでないと考えますよね
今後もよろしく
s・バレット >>魔竜さん
種としての多様性。生物学的な意味合いからフィクションを考えるその視点、イカシます。
あらゆる環境に適応して地球全土に棲息地域を広げたのが、身体的能力においてヒトを圧倒的に凌駕する他の哺乳類ではなく、人という種であった最大の原因はフィクションかもしれませんね。
DNAという遺伝子に加えて、文化という人のみが持つもう一つの遺伝子を持っているため、適応能力が各段に優れるという理屈。
魔竜さんのいった、フィクションが生む多様性とは個々人間におけるものでしょうが、多分、その発想をエスカレートさせるとこうなりますよね?なる?
魔竜 >>あびさん
こちらこそ♪。
ほ乳類は人間でも、何考えてるか分かりやすいしね。(魚類はお手上げだ!)
>バレットさん
そこまで言っていただけるとは光栄の至りです!。
はっきり「なる」でOKです♪。
半分、期待が混ざってますが、「地球以外の環境」に住もうと思うと、
やっぱりフィクションは必要になるだろうし。
寿命が尽きるより早く、現実になるそうですよ。
s・バレット > フィクションとは何か。
ひいてはフィクションで感動するとは何なのか。
我々は何故フィクションを、現実には起き得ないと分かっている絵空事を「楽しめる」能力を持っているのか。
それが最大の問題なのです。
取り敢えず、今回は「人に」をつけさせてもらいます。動物まで含めると、獣は意識や理性、自己認識を持っているか、そこにまで突っ込まなければならなくなり、収拾がつかないので。次の返信からは、「人に」、こだわらない。
まず、ここで出てきた意見を求めて見たいと思います。
HDKさんは「人間にとってフィクションは必要かどうかなんて、人間が生み出した技術の結晶の数々を見れば、「言われるまでもない」と思うっちゅーことなワケ」と、帰納法によりフィクションの不可欠性を論じ、そして「新しいもの、未知のものを生み出すには創造力が必要で、それはヒトの豊かすぎるほどの想像力がエネルギー源なんじゃないの?」と、フィクションを発展・創造の原因と位置付けました。
あびさんは「社会の構成員として個々の認識を平坦化する為、共通の幻想(虚構)は持たざるを得ないと考えます」と、フィクションは社会性の育成を担うと考察しています。
また、魔竜さんは「動物とフィクション」について具体的な例を示し、あびさんの「『人に』を取りたい」という方向性を進展させ、また、生物学的な観点から、フィクションを生命の多様性を育むものと新鮮な捉え方を提示してくれました。
私、s・バレットは「リアルなフィクション」(=歴史・民族・倫理など)と「一般的な意味合いでのフィクション(=説話・文学・ゲームなど)を明確に分けて考えるべきだと主張しました。
さて、この議論「人にフィクションは必要か否か?」の言い出しっぺは私ですが、今まで問われなかったことがあります。そのことについては今まで、少なくともこの場では問われてきませんでした。
理由は簡単です。あまりにも自明だからです。
この議論の進行上において、それはあえて問うまでもないことのように思われがちで、ために見落とされてきたのでしょう。
その問いとはすなわち、フィクションははたして何らかの「結果のために」享受・消費されるのか。言いかえればフィクションは、それを受け取る者が何かを生み出すための触媒なのか。
この問いの答は普通、自明です。人は動機があるからこそ行動を起こすのであり、結果に繋がらない行動は自覚的には起こさないのが普通の考えでしょう。今まで挙がった論も、この常識的なラインを外れては展開されていません。何故か。自明だからです。
しかしこの常識的なラインは、社会学ではなく「私には何故フィクションが必要なのか」という極めて個人的な側面から問題を捉えた時、決して自明ではありません。我々が物語を読む、ドラマや映画を見る、ゲームをプレイする……その時、我々は「何かのためにフィクションに触れているのだ」などと思っているだろうか?フィクションを教授したことによる結果を想定して、その原因としてフィクションを捉えているだろうか。そんなバカな事があるわけがないでしょう?
何の為にフィクションを楽しむか。その答は、生物が生きる理由に似ていると言えるでしょう。「生きている」から「生きる」のだとしか言い様がないように、行為から生まれる結果が目当てなのではなく、フィクションを享受するという行為そのものが目的なのです。この行為と目的の不可分性は、フィクションを享受する行為の、無視できない大きな特徴でしょう。
そこで考えてみたいのは、本質的にフィクションを享受する行為は何か、ということです。つまり、フィクションを享受する行為を通じて、人は何を行っているのか。
物語を例にとって考えてみます。物語には説話や伝説や世間話、講談、落語、小説などがありますが、概括して言えばつまるところ、「連鎖的に起こる物事の叙述」のことです。つまり、次から次へ玉突き式に変化して行く状況の流れ=筋が物語の本質を成している。物語を楽しむとは、この状況の変化を体験する行為が基本であると言えるでしょう。
ところで、私は最近、瀬名秀明(代表作『パラサイト・イブ』『ブレインバリー』)の『八月の博物館』という作品を読みました。「物語とは」という疑問を主題にした作品で、以前、新聞でこの本の書評を読んだのが、自覚的に「物語って何だ?」と問い掛け始めるきっかけなのですが、この本の冒頭の方で登場人物である作家が「物語にはなぜ始まりと終わりがあるのだろう」と問い掛けていました。
そこで改めて気付かされたのですが、「始まり」と「終わり」があるとは、なんとも言えず「おかしい」奇妙な現象でしょう。現実世界においては、どこにも明確な「始まり」「終わり」などというものはないのです。脳死問題や堕児の問題を思い起こせば、生と死という区分さえ、恣意的な区分でしかないことを理解するには十分でしょう。しかし、物語には「始まり」と「終わり」がある。何故か。それは物語が「状況の変化」であるからです。状況が変化する様を描くならば、最低でも二つの要素が必要です。「始まり」と「終わり」。それが最も簡略な物語のかたちです。「始まり」だけでも「終わり」だけでも、物語とは呼べない。二つが一つになった時、はじめて物語は物語となり、物語の時は流れだすのです。
いま私は、「時は流れ出す」、そう記しました。
時が流れ出し、ようやく物語は物語となる。「時の流れ」こそ物語なのです。
筋を追う疾走感は、意識できない精神領域で行われている「時」の創造行為を、内省的に認識している現象に他ならない。つまりフィクションを楽しむ行為は、イコール「時の流れ」の創造以外なにものでもない。
ここでいう「時の流れ」とはもちろん空間座標に印すことの出来る物理学的な時間のことではない。内的な時間で「行為的な現在」のことです。つまり、物事に没頭すると時を忘れてその物事に熱中するじゃないですか。あの感覚が「行為的な現在」。それを強くするのが物語の力であるのです。
さて、このようにして物語は「行為的な現在」を生み出す力を持つと証明しました。ここで当初の問題に戻って見たいと思います。
「人にフィクションは必要か否か」。
今、このお題は「行為的な現在」は必要か、ということと同義になりました。
この「行為的な現在」は実は特殊な状態ではなく、極めて基本的な精神の働きです。それは常に休むことなく我々の時間を紡いでいます。ただ、我々が存在を認識したとき、言い換えれば自己を省みた時に「行為的な現在」は流れから認識可能な「存在」へと凝固してしまうため、認識不可能なのです。
ここで『偶然性の精神病理』(木村敏 岩波書店 2000年発行)より引用。
「『生き生きした自己』のアクチュアリティ(引用者注:「行為的な現在」と同義)は、…(中略)…個々の今を時間の流れにまとめ、瞬間瞬間の自分を以前の自分とつなぐものである……」
つまり、本来バラバラである瞬間瞬間に連続性を生み出すのが(物語でいえば「始まり」と「終わり」を一本の線でつなぐのが)「行為的な現在」の働きの一つであるということです。その働きは、引用文を見れば分かるように時間的な自己の同一性に深く関わっているのです。
誤解のないように言っておくと、物語が「行為的な現在」そのものを生み出すのではない。「行為的な現在」がまず働いていてこそ、物語は物語としての働きを果たすのです。だから、フィクションがはじめにあるのではありません。「行為的な現在」という生物にとって自明の時の感性がまずあり、それをさらに機能的に働かせるのがフィクションです。
だから、私には、フィクションが人が生きる上で有用であることは是認しても、絶対不可欠かと言われると「そうだ」と言い切ることは出来ない。
しかし現実世界が我々の時間=「行為的な現在」をフィクション以上に上手く紡ぐことが出来るか、大いに疑問でもある。現実世界には章立てもなければ句読点もない。フラグも、レベルも、四部音符もフェルマータもなく、明確な始まりも終わりもなくただただ茫洋としているだけではないか。「変わることのない日常」の感覚など、その最たるものである。そこでは「行為的な現在」がどれほど有効に働いているというのか。そこではフィクションが切に必要とされているではないか。
そんな感じ。
アトラ >
私的には、無きゃイヤです。無くても別にいいんでしょうが、
あったほうがずっと楽しく生活できるし。
ただ、そればっかりっていうのも考えものですが。
行き過ぎない程度に「自分だけのフィクション」を楽しむってのも
なかなか気持ちの良いものだと思うのですが。
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